この頃、本当の意味でのローカルの強さを感じている。
今日自分が伝えたいのは濃さの話です。自分は人間関係が得意な方ではない、知ってる人もいると思います。自分は固執し一つの事を考える方だ、まぁ頑固です。これだけ聞くとダメな感じに思う人は多くいるかもしれません。まぁ、そこは直した方が良い気がしますが・・・ 逆にとらえるとこう言えませんか? 少ないが大切で大好きな人がいる。しっかりと大事な事を理解している。
なぜかグローバルが進み、なぜか均一化が進み、なぜか普通が好まれる。
グローバルに進む事はとてもいい事に感じます。が良くない事も存在する気がします。ローカル良さをグローバルに発信するのはとても良い事だと思います。グローバルにすべてを合わせるのはどうなのでしょうか?ローカルにはローカルの良さがあります。出来るだけ、ローカルを尊重しグローバルに良い所を発信できる物を育みたいです。
ここで大きな問題「不自由な自由」
そうなると、こういう考えの方がいらっしゃると思います。ローカルなら何をやってもいいという考えです。ローカルのローカルらしさは「当たり前、基本」に当てはめなくてもいいという考え方です。一理あると思われますが、これが「不自由な自由」(*大好きなラッパーさんから言葉を拝借しました。)です。自由は自由です。でも、不自由な自由が存在します。
例えば
レッスンの休憩時間に「なんでもしていいよ。」 という自由は 「もし練習してる人がいたら邪魔はしないでね」という制限が入っています。
晩御飯を聞かれて「なんでもいいよ。」 という自由は 「食べられるものなら」という制限が入っている気がします。。
当たり前ですが、何でもするときは大抵やってはいけない事が入っているのです。
この制限が、自由を生み出すとかんがえています。
やってはいけない事とやるべき事、やるべきじゃない事
例えば
「むやみに人は殴る」 やってはいけない事です。 自分の知る限り
「人の物を盗る」 やってはいけない事です。 自分の知る限り
「人にやさしくする」 やるべき事です。
「勉強する」 やるべき事です。
「暴飲暴食をする」 やるべきじゃない事。 自分の知る限り
「悪口をいう」 やるべきじゃない事。 自分の知る限り
やってはいけない事を教え。やるべき物は提示をしてあげて、やるべきじゃない事は本当にやるべきじゃないか議論する。
その上で自由に遊びまくる。
これが自分の思う自由という感覚です。そしてローカルの話に戻ります。なぜローカルを大事にするべきなのか・・・ やってはいけない事に関してはグローバルな規則に当てはめても大概問題はない気がします。いや、あるかもしれませんが、そこはもっと大きな目で見れる方にお任せします。
ローカルで出来る部分は、やるべき事「道」「方向性」を提示する事と、やるべきじゃない事を議論して納得するまで意見交換する事だと思っています。
「やるべき事」「やるべきじゃない事」を覆せれば、また面白い何かが生まれるかもしれません。やってはいけない事を守れてればグローバルにも発信できます。
目を見て話す事、近くで肌に感じて生きる事
これはグローバルには出来ない「人間関係の濃さ」
やるべき事、やるべきじゃない事を話し合う事
「地域としての方向性の濃さ」
それを発信していく事により
「地元愛の濃さ」につながると思っています。
浦安で自分達が育んでるものは
自由にダンスを踊るという事
カポエィラを通じてのコミュニケーション
ローカルブランドを着て歩く責任感
地元を意識した仲間意識